「大企業の一部門だったのだから、基礎はあるだろう」。そう高を括ってカーブアウト(事業切り出し)案件のCEOやCXOに就任した経営者は、着任初日に青ざめることになる。
そこには、看板も、人事制度も、ITインフラも、経理システムも存在しない。あるのは「事業(ビジネス)」と「従業員」だけ。親会社という巨大な生命維持装置から切り離された瞬間、組織は呼吸困難に陥る。PEファンドの選考において、カーブアウト案件の候補者に最も厳しく問われるのは、戦略の美しさではない。「インフラなき荒野」で、泥にまみれて城壁を築く、実務家としての遂行能力だ。
TSA(暫定サービス契約)という時限爆弾
選考の面接で「TSA(Transition Service Agreement)」という単語に対し、どれだけ危機感を持った反応ができるか。これが合否の分水嶺となることが多い。
カーブアウト直後は、親会社のシステムや機能を一時的に借りる期間(TSA期間)がある。しかし、これは高コストであり、かつ期限付きだ。「1年以内に自前のITシステムを導入し、人事評価制度を一から作り、オフィスを移転し、経理を内製化する」。これを通常業務と並行して行う過酷さは、想像を絶する。
「それは管理部門の仕事でしょう?」という顔をした候補者は、即座に不採用となる。なぜなら、その管理部門さえも、まだ存在しないか、機能不全に陥っているのがカーブアウトの常だからだ。
カーブアウトとは、飛行中の旅客機のエンジンと翼を、空中で交換するような作業である。
「ベンチャーの混沌」と「大企業の政治」の狭間で
カーブアウト経営者に求められるスキルセットは、極めて歪(いびつ)でハイブリッドなものだ。
一方で求められるのは、スタートアップのような「ゼロイチ」の立ち上げ能力。名刺の発注から銀行口座の開設まで、何もないところから仕組みを作る泥臭さが必要だ。しかし、もう一方で求められるのは、大企業出身のプライド高い従業員や、元親会社との契約交渉をまとめる、老獪な「大人の政治力」である。
ベンチャーあがりの起業家では、大企業文化に馴染めず組織が崩壊する。生え抜きの大企業役員では、手足が動かずインフラ構築が頓挫する。この「水と油」を両立できる稀有な人材だけが、カーブアウトの荒野を生き抜くことができる。
選考で見られているのは、「戦略を描く頭脳」だけではない。「泥道を歩ける足腰」と、不安に怯える社員を鼓舞し続ける「強靭な心臓」である。
結びに:最も純粋な「経営」の実験場
これほど過酷な環境はない。だが、これほど経営者としての実力が丸裸にされる環境もない。
親会社の看板も、豊富なリソースもない場所で、貴方は再び組織を定義し直すことができる。それは、単なる「再生」ではなく、第二の「創業」だ。不自由な荒野で、自らの手で城を築き上げるカタルシス。それを「面白い」と言い切れる狂気じみた情熱こそが、PEファンドが最も欲しがる資質なのだ。