競業避止義務の誓約書にサインした記憶があると、転職を考えたときにまず「訴えられるのか」を心配する。だが役員クラスで実際に効いてくるのは、訴訟ではない。退職慰労金・株式報酬・繰り延べ報酬といった、後払いにしてあるものが払われないことである。
会社は差止めを求めて裁判所に行く必要がない。ただ払わなければいい。争うのは、払われなかった側になる。この非対称が、競業避止条項の実務上の強さのほとんどを作っている。
以下は一般的な考え方の整理であり、個別の判断は契約書の文言で変わる。動く前に弁護士に見てもらう前提で読んでほしい。
在任中と退任後は、根拠がまったく違う
競業避止には三つの局面があり、混ざりやすい。
在任中は、契約書がなくても法律上の制約がある。取締役が自分または第三者のために会社の事業の部類に属する取引をするには、株主総会(取締役会設置会社では取締役会)の承認が必要だと定められている。誓約書に何も書いていなくても、在任中に競合の仕事を始めれば問題になる。
退任後は逆で、法律上の一般的な義務はない。契約や規程があって初めて生じる。つまり退任後の制約は、すべて「どこかに書いてあるから」存在している。だからこそ、何にどう書いてあるかを確認する意味がある。
※会社法上の競業規制とは: 取締役は会社の情報と取引先を握っているため、会社と競合する取引を勝手に行うことが制限されている(会社法356条・365条)。承認を得れば行える性質のもので、禁止そのものではない。退任すればこの規制からは外れる。
発動の形は三つあり、通るハードルが全部違う
- 差止め — 転職や事業開始そのものを止める。職業選択の自由を直接制限するため、裁判所は限定的にしか認めない。いちばん通りにくい
- 損害賠償 — 損害が出たこと、その額、因果関係を会社側が立証する必要がある。手間も時間もかかる
- 退職金・株式報酬の不支給、支給済み分の返還請求(クローバック) — 会社は「支給しない」と判断するだけでよい
三つ目だけ、性質が違うことに気づいてほしい。1と2は会社が動き、会社が立証する。3は会社が動かず、不服なら受け取る側が請求する側に回る。立証責任と時間的な負担が、まるごと入れ替わる。
そして役員は、報酬の後払い部分が大きい。中長期のインセンティブ、譲渡制限付株式、退任慰労金。年収の数字には入っていても、手元にはまだ来ていない部分が積み上がっている。ここが人質になる構造だと理解しておくと、心配する場所が変わる。
※クローバックとは: いったん支給した報酬を、一定の事由が起きたときに会社が返還請求できる仕組み。不正会計や重大な違反を想定して入れられることが多いが、競業行為を事由に含めている例もある。株式報酬の規程や交付契約の側に書かれていることが多く、雇用・委任の契約書だけ見ていると見落とす。
有効性を分けるのは、四つの物差し
退任後の競業避止条項は、書いてあれば無条件に有効というものではない。裁判で争われる場合、一般に次のような点を見て、有効な範囲が絞られると理解されている。
- 守るべき会社の利益が実在するか — 具体的な技術情報や、価格・原価といった非公開の情報に触れていたか。「同業に行くと困る」だけでは弱い
- その人の地位 — どこまでの情報と人脈を、職務として握っていたか
- 制限の範囲 — 期間、地域、禁止される職種や行為の広さ。無限定に広いほど不利になる
- 代償措置 — 制限に見合う対価が支払われているか。在任中の報酬水準が代償と評価されることもある
ここで役員は、上の二つで不利に働く。情報にも人脈にも職務として触れていたことが前提だからだ。同じ文面の誓約書でも、役員のほうが広い範囲で有効と扱われやすい。従業員時代の感覚を持ち込むと読み違える。役員の転職を縛るものの全体像は役員の転職にかかる制限は3層あるにまとめた。
削れる場所は、退任を決める前後にしかない
交渉力が残っているのは、辞めると伝えてから引継ぎが終わるまでの短い期間である。会社は円満に引き継ぎたい。こちらは制約を軽くしたい。利害が重なるのはここだけだ。辞めたあとに条件を緩めてもらった例は、ほとんど聞かない。
削り方は、禁止の強さを争うのではなく、輪郭を具体的にする方向で考えるとまとまりやすい。
- 期間を切る(無期限や長期の記載を、実際に情報が古くなるまでの期間に)
- 対象を「同業他社」から具体的な社名の列挙に変える。同業という言葉は、後から広く読める
- 禁止される行為を限定する(役員就任は不可でも、資本参加や顧問は可、など)
- 代償措置を文言として残す
- そして報酬の不支給条項を切り離す。競業避止に同意することと、既に確定した後払い報酬を放棄することは別の話である
最後の一点がいちばん効く。前段で書いたとおり、実務で効くのはそこだからだ。
「うちは気にしない」は残らない
役員の退任は、登記の変更、引継ぎ、退職慰労金の決議と、文書が何本も動く場面である。口頭で「気にしないよ」と言われても、その人が来年もその席にいるとは限らない。その場で動いている文書のどれかに乗せる。合意書でも覚書でもいい。形式より、書面が残ることのほうが重要になる。
確認する順番も決めておくとよい。誓約書だけを見るのでは足りない。委任契約書、就業規則(役員には適用がないことも多い)、株式報酬の規程と交付契約、株主間契約。競業に関する記述は、この四つ以上に分かれて入っていることがある。
制約の重さを正確に把握したうえで動く人は、条件交渉でも強い。次の会社に「ここまでは受けられない」と言えるからだ。曖昧なまま動くと、入社後に発覚して立場が悪くなる。非公開の経営ポジションを検討している方は、経営ポジションを探している方へも参照してほしい。
