役員が転職するときにかかる制限は、ひとつではない。性質の違う3層が重なっている。 在任中に会社法が直接かける義務、退任後に契約だけが残す制限、そして契約の有無と関係なく残り続ける営業秘密の制限である。
多くの方が確認するのは2層目——就任時に署名した誓約書だけだ。しかし実務で効いてくるのは、書面がどうであれ消えない3層目であることが少なくない。以下、3つの層がなぜ違う効き方をするのかを整理する。
なお本記事は一般的な制度の整理であり、個別の契約や事案の判断は弁護士にご確認いただきたい。
第1層:在任中は、契約がなくても会社法が直接縛る
在任中の取締役には、契約書に何も書かれていなくても義務がかかる。根拠は会社法にある。
取締役は会社に対して忠実義務を負い(会社法355条)、自己または第三者のために会社の事業の部類に属する取引をしようとするときは、重要な事実を開示して承認を得なければならない(同356条1項1号)。取締役会設置会社では取締役会の承認が必要で、取引後の報告も求められる(同365条)。
※競業避止義務とは: 会社と競合する取引や事業を行わない義務のこと。在任中の取締役については、上記のとおり会社法が定めており、就業規則や誓約書がなくても適用される。従業員の場合とは根拠が異なる点に注意したい。
この層が転職の局面で問題になるのは、辞める前の準備行為である。在任中に競合先と条件を詰める、部下に声をかける、顧客に挨拶を始める。どこからが違反かは事案によるが、承認を得ずに競業取引をした場合には、その取引で得た利益の額が会社の損害額と推定される(同423条2項)という規定がある。立証の負担が本人側に寄る構造になっているということだ。
裏を返せば、辞任の意思表示を先に済ませ、在任中は準備を進めないという順序を守れば、この層はほとんど問題にならない。委任契約であるため辞任自体はいつでもできる(会社法330条、民法651条1項)。ただし会社に不利な時期の辞任は損害賠償の対象になりうる(民法651条2項)ため、時期と引き継ぎは現実的な論点として残る。
第2層:退任後は会社法の義務が消える。残るのは契約だけ
ここが最も誤解されている。退任すれば、会社法上の競業避止義務は終わる。 役員という地位に基づく義務なので、地位が無くなれば根拠も無くなる。
したがって退任後を縛れるのは契約だけである。就任時の誓約書、退職合意書、株式譲渡契約に付いた条項。ここに署名がなければ、退任後の競業そのものを禁じる根拠は原則として存在しない。
ただし逆も真ではない。署名があれば無条件に有効、ということにもならない。 職業選択の自由との関係で、裁判所は競業避止の特約を総合的に見て有効性を判断してきた。古典的にはフォセコ・ジャパン事件(奈良地裁 昭和45年10月23日)が枠組みの原型とされ、以後の裁判例や経済産業省の「秘密情報の保護ハンドブック」でも、おおむね次の要素で判断が整理されている。
- 守るべき企業の利益が実際にあるか
- 本人の地位が、その制限を課すに足るものだったか
- 制限の期間が合理的か
- 地域や対象業務の範囲が限定されているか
- 代償措置があるか
※代償措置とは: 競業を制限される不利益に対して会社が支払う対価のこと。制限期間中の金銭補償が典型だが、在任中の報酬や退職慰労金に競業制限の対価が含まれていたと評価される場合もある。
「2年間、同業他社への就職を禁止する」とだけ書かれた条項は、範囲が広く代償措置もなければ、その全部が有効とは限らない。逆に、対象を具体的な事業領域に絞り、期間を1年とし、その間の補償が用意されている条項は有効と判断されやすい。条項の強さは、書かれた年数ではなく設計の合理性で決まる。
なぜ役員のほうが、広い制限でも有効になりやすいのか
ここが役員固有の論点である。同じ文面の競業避止条項でも、一般従業員より役員のほうが有効と判断されやすい傾向がある。 理由は3つある。
第一に、地位である。判断要素に「本人の地位」が入っている以上、経営の中枢にいて企業秘密や顧客関係に接していた人ほど、制限する必要性が認められやすい。
第二に、報酬である。代償措置の有無を見るとき、在任中の報酬水準が考慮されうる。高い報酬を受け取っていた事実が、制限の対価として読まれる場合がある。
第三に、契約の性質である。役員と会社の関係は雇用ではなく委任であり(会社法330条)、労働者を保護するための法理がそのまま適用されるわけではない。
※委任契約とは: 一方が法律行為などの事務処理を相手方に委ねる契約。役員は会社から経営を委任されている立場で、労働者として雇われているのではない。労働法の保護が当然には及ばないのはこのためである。
つまり「役員だから自由に動ける」のではなく、役員だからこそ制限が効きやすい。 従業員時代の感覚のまま判断すると、ここでずれる。
第3層:契約がなくても残る、営業秘密の制限
そして、誓約書に署名していなくても消えない層がある。不正競争防止法上の営業秘密である。
営業秘密として保護されるのは、秘密として管理され、有用で、公然と知られていない情報だ。この3要件を満たす情報は、退職後であっても、契約の有無と無関係に不正な使用や開示が禁じられる。
役員が扱っていた情報——顧客ごとの取引条件、原価の内訳、未公表の投資計画、人事の評価データ——はこの要件を満たしうるものが多い。転職先で同じ市場を担当すれば、頭に入っている情報を使わずに仕事をするのは容易ではない。
実務上、いちばん現実的なリスクはここにある。 競業避止条項は範囲が広すぎれば効力が制限されうるが、営業秘密の保護には「範囲が広すぎるから無効」という論理が働かない。
なお、前職の部下を誘う行為も別枠の論点になる。通常の勧誘は違法ではないが、在任中の忠実義務との関係や、勧誘の態様が社会的相当性を逸脱する場合には、不法行為として責任を問われることがある。役員は在任中に義務を負っている分、線引きが従業員より手前にある。
動く前に確認する3点
制限の棚卸しは、転職を決めてからでは遅い。着任時期の交渉材料になるからだ。
1. 署名した書面を全部集める。 誓約書は就任時だけとは限らない。昇任時、株主間契約、ストックオプションの割当契約に条項が入っていることがある。記憶ではなく現物を確認したい。
2. 代償措置の有無を確認する。 条項の有効性を左右する要素であり、退職金や在任中の報酬が対価と評価されうるかは、条項の文言と支給の建て付けで変わる。
3. 自分が触れた情報の範囲を言語化する。 どこまでが公知で、どこからが秘密管理されていた情報か。この線を自分で引けていることが、転職先での立ち回りを守る。
その上で、範囲や期間に不安があるなら、退職の条件交渉の中で対象事業や期間を限定してもらう合意を残すのが現実的な解になる。すでに署名した条項でも、退職合意書で範囲を明確化することはできる。
この確認が、着任できる時期を決める
制限の話を「転職の障害」として捉えると、確認そのものが後回しになる。実際には逆で、制限の輪郭がはっきりしている人ほど早く動ける。
経営ポジションの採用には外部の日付が刺さっていることが多い。投資実行後の体制づくり、統合の開始時期、オーナーの引退時期。その日付に間に合うかどうかが要件そのものになる局面では、「制限があるかもしれない」という不確定な状態が、そのまま選考上の不確実性として扱われる。
逆に、対象領域と期間を自分で説明でき、抵触しない範囲を提示できる候補者は、条件の設計に入りやすい。前提を整理しておくことが、そのまま機会につながる。
役員の在任と辞任をめぐる制度上の位置づけについては、執行役員の転職は「役員経験」として読まれないでも別の角度から触れている。
当社は、PEファンドの投資先や事業承継の局面で生まれる、公開されない経営ポジションを扱っている。経営者としてのキャリアをお考えの方へもあわせてご覧いただきたい。
