「役員を降りたい」と考えたとき、最初に確かめるべきなのは退職金の額でも次の行き先でもない。自分と会社の間に、いま何の契約が結ばれているかである。
というのも、取締役を降りるという行為は、退職届を出すことではなく、委任契約を終わらせることだからだ。そして委任契約を終わらせても、社員としての席が自動的に戻ってくることはない。この一点を知らないまま辞任を申し出て、想定と違う場所に着地する人がいる。
※委任契約とは: 会社法330条は、株式会社と役員との関係について「委任に関する規定に従う」と定めています。会社が役員に経営の判断そのものを委ねる契約で、労働時間や指揮命令を前提とする雇用契約とは別種の契約です。労働基準法の保護も原則として及びません。
「降りる」には三つの入口があり、出口は別の話である
まず整理しておきたいのは、降り方と、その後どこにいるかが別の軸だということだ。
降り方は三つある。辞任(自分の意思で任期の途中に委任契約を終える)、任期満了による不再任(任期が来て、再び選ばれない)、解任(株主総会の決議で外される。会社法339条1項により、株主総会はいつでも取締役を解任できる)。
一方で「その後どこにいるか」は、会社を去るのか、社員として残るのかという別の問題である。多くの人がこの二つを一つの決断だと思っているが、制度上はつながっていない。辞任は「役員でなくなること」しか決めない。 会社に残れるかどうかは、そこから先の交渉である。
委任契約は、雇用契約に自動では戻らない
「役員を降りて、部長に戻る」という話をよく聞く。これは実際に起きるが、降格ではなく、新しい雇用契約を結び直す合意として起きている。
分かれ目は、いま雇用契約が併存しているかどうかだ。部長と取締役を兼ねている使用人兼務役員であれば、取締役を辞任しても使用人としての雇用契約は残る。これに対して、純粋な取締役として就任した人には雇用契約が存在しない。降りた瞬間に、会社との法的な関係はなくなる。
※使用人兼務役員とは: 取締役でありながら、部長・支店長といった使用人(従業員)の地位を併せ持つ人を指します。二つの契約が同時に走っている状態です。なお代表取締役は、この形をとることができません。
つまり「降りたあとも会社に残る」を前提にしているなら、辞任を申し出る前に、残る側の条件を先に固めておく必要がある。順序を逆にすると、交渉材料を手放した状態で条件を聞くことになる。
辞任届を出しても、降りられないことがある
もう一つ、事前に知っておくべき仕組みがある。権利義務取締役である。
会社法346条1項は、法律または定款で定めた取締役の員数を欠くことになる場合、辞任によって退任した取締役は、新たに選任された取締役が就任するまで、なお取締役としての権利義務を有すると定めている。取締役会設置会社では取締役は3人以上必要(会社法331条5項)なので、3人の会社で1人が辞任を申し出ても、後任が決まるまでその人は取締役のままだ。
これは形式的な話ではない。登記も抜けず、在任中と同じ責任を負い続ける。「辞めると伝えたのだから自分はもう関係ない」とはならない。
だから後継者不在の会社ほど、降りるまでに時間がかかる。降りると決めた時点で、後任の目処が誰の仕事になっているかを確認しておく意味はここにある。
降りる時期が、三つのお金を動かす
いつ降りるかは、金額に直接効く。
一つめは役員退職慰労金。 これは会社が当然に支払うものではなく、定款の定めまたは株主総会の決議があってはじめて支払義務が生じる(会社法361条の報酬等に含まれる)。内規があっても、決議がなければ請求権は生まれない。詳しくは取締役の「退職金」は約束されていない?役員退職慰労金に潜む不支給リスクと防衛策で扱っている。
二つめは業績連動報酬と株式報酬の権利確定。 在任していることを支給の条件にしている設計が多く、期末や権利確定日の直前に降りると、積み上げた分がそのまま消える。
三つめは、辞任の時期そのものに伴う責任である。 民法651条は委任をいつでも解除できると定める一方、相手方に不利な時期に解除した場合は、やむを得ない事由があるときを除いて損害を賠償しなければならないとしている。実際に請求まで至る例は多くないが、引き継ぎを設計せずに降りることは、法的にも交渉上も弱い立場を作る。
執行役員の「降りる」は、まったく別の手続きになる
なお、執行役員は会社法上の役員ではない。多くの会社で執行役員は雇用契約のままの職位であり、降りることは委任契約の終了ではなく職位の解除にあたる。手続きは社内規程で完結し、登記も株主総会も関係しない。
この違いは、降りたあとの経歴の読まれ方にも及ぶ。詳しくは執行役員の転職は「役員経験」として読まれない。制度の設計上、決議側にいなかったからだに書いた。
降りたあと、経歴はどう読まれるか
最後に、当社が経営ポジションの選考に関わる立場から見えていることを一つ書いておく。
降りた理由を、採用する側はそれほど深く詮索しない。任期満了なのか辞任なのかという区分よりも、在任中に何を決裁していたかを見ている。取締役会に何を上げ、何を自分の判断で決めていたか。そこに実体があれば、在任年数が短くても経営経験として読まれる。
逆に言えば、降りることそのものは経歴上の傷ではない。説明が必要になるのは、在任中の決裁範囲が説明できないときだけである。降りる前に、自分が何を決めていたかを言語化しておくほうが、辞任の理由を用意することよりずっと役に立つ。
降りる前に確かめる4つ
- いま自分にある契約は何か。 委任契約だけか、雇用契約が併存しているか
- 降りたあとどこにいるか。 会社に残るなら、その条件を辞任の意思表示より前に固める
- 員数を欠かないか。 後任がいなければ、辞任しても権利義務は残る
- 報酬の権利確定日はいつか。 退職慰労金の決議、業績連動・株式報酬の在任要件
経営ポジションを離れる判断は、次の行き先が決まってからのほうが選択肢が広い。非公開の経営ポジションについては経営者としてのキャリアをお考えの方へをご覧いただきたい。
