「勇退」は、会社法にも登記簿にも存在しない言葉である。登記されるのは辞任か任期満了による退任のどちらかで、勇退という区分はない。

つまり勇退とは、退き方を外に説明するための言葉である。だから「勇退していただきたい」と言われたときに確かめるべきなのは言葉の意味ではなく、自分の退任が法律上どちらに当たるのか、そして退職慰労金と次の席がどう扱われるのかである。呼び方が柔らかいことと、条件が有利であることは、まったく別の話だ。

勇退は、必ず辞任か退任のどちらかに対応している

会社法が定めているのは、任期満了・辞任・解任の3つである。勇退と呼ばれている退き方も、手続き上はこのいずれかに必ず落ちる。

この区別が効いてくるのは、次の4点が区分ごとに変わるからだ。

  • 退職慰労金(役員退職慰労金)の決議のしかた
  • 登記の日付と、対外発表の時期
  • 任期の残りをどう扱うか(途中で辞めるのか、満了まで務めるのか)
  • 競業避止義務の起算日

※競業避止義務とは: 退任後の一定期間、同業他社の経営に関与しないことを約束する義務である。会社法上の義務として当然に残るものではなく、就任時の契約や退任時の合意書に書かれている範囲でだけ効く。起算日は原則として退任日になる。

退任・辞任・解任がそれぞれ何を意味するかは退任・辞任・解任の違いと役員退職金への影響に整理している。勇退という言葉を使われたときは、まずこのどれに当たるのかを確認するところから始める。

「勇退してほしい」の中身は、3つに分かれる

同じ言い方で、実際に起きていることは3通りある。

  1. 任期満了に合わせた円満な交代。後任が決まっていて、引き継ぎの期間も設計されている。本来の意味の勇退はこれである
  2. 後任が決まっていないのに、退任時期だけが先に決まる型。実質は退任の要請で、合意による辞任として処理されることが多い
  3. 業績やガバナンス上の理由があり、解任という手続きを避けるために辞任を促す型

見分け方は、退任日と後任のどちらが先に決まったかという順序である。後任が先に決まっていて、その就任時期に合わせて自分の退任日が置かれているなら、1に近い。逆に自分の退任日が先に決まり、後任は「これから探す」と言われているなら、円満という外形をとった2か3である可能性が高い。

順序は主観ではなく、確認できる事実である。感触で判断せず、後任の候補が具体的にいるのかを聞く。ここを確かめないまま「円満ですから」という説明を受け入れると、次の条件交渉で使える材料を自分から手放すことになる。

退職慰労金は、勇退だから出るものではない

役員退職慰労金は就業規則で保証された権利ではなく、株主総会の決議がなければ支払われない。勇退という言葉は、この決議を保証しない。

※打切支給とは: 従業員から役員に上がるときなどに、それまでの勤続分の退職金をその時点で精算して支払うことである。役員としての退職慰労金とは別の枠で、支給の時期も根拠も異なる。

決議が次の定時株主総会まで先に延びるケース、支給額の算定根拠(役位別の係数や在任年数)が明示されないケース、支給自体が見送られるケースがある。仕組みとリスクは取締役の退職金は約束されていないに詳しく書いた。勇退の話が出た時点で、決議をいつの総会に上げるのかを確認する。

勇退と言われた時点で決めておく5つ

  1. 退任日と登記の日付、そして対外発表の文言。「勇退」と書くのか、「辞任」と書くのか
  2. 退職慰労金の決議の時期と、金額の算定根拠
  3. 競業避止と秘密保持の範囲・期間。起算日はいつか
  4. 顧問や相談役として残るのか。残る場合の期間・報酬・他社就任の可否
  5. 代表権が抜ける日と、引き継ぎ期間中の権限の範囲

このうち次のキャリアを最も強く縛るのは4である。顧問として残る形に合意すると、競業避止の実質的な期間が顧問の任期の分だけ延びることがある。報酬が出ている間は他社の役員に就けない、という条項が付く場合もある。円満の証として顧問を受けたことで、次の席の選択肢が狭まるという順序は珍しくない。

退任後に何が残るかは契約だけでは決まらない。在任中の義務、退任後の契約、契約と無関係に残る営業秘密の3層があり、その全体像は役員の転職にかかる制限は3層あるに書いている。

「勇退」の外形は、次の選考で必ず読まれる

PEファンドやオーナー企業、指名委員会が経歴を読むとき、退き方は必ず確認される。そこで見られているのは円満だったかどうかではない。何を残して退いたのかである。

  • 後任が決まっていたか。決まっていたなら、誰が決めたのか
  • 在任中に何の数字が動いたのか
  • 引き継いだ組織が、自分が抜けたあとに機能したか

「円満に勇退しました」という説明だけでは、この3つのどれにも答えていない。むしろ、後任の不在や業績の説明を避けているように読まれることがある。語る順序は、残したもの→退いた理由→退き方の手続き、である。

日付が決まってから動くと、空白が長くなる

代表取締役には、次が決まってから辞めるという一般的な順序が取れないという制約がある。後任・株主総会・登記という3つの手続きが絡むためで、詳しくは代表取締役の転職は「決まってから辞める」ができないに整理した。

勇退の場合、退任日が先に決まることが多い。そこから動き始めると、経営ポジションの選考は要件定義から着任まで数か月かかるため、空白期間がそのまま長くなる。

やるべきことは、勇退の打診を受けた時点で条件交渉と並行して市場を見ておくことである。順序を逆にすると、退任日という期限だけが先にあって、選べる席がない状態から交渉を始めることになる。勇退という言葉が持つ穏やかな響きに合わせて、自分の動き出しまで穏やかにする必要はない。