事業を売ると決めた後、その事業にはクロージングまでの経営が要る。
この席の要件は、事業を伸ばす経営者の要件とは別物である。にもかかわらず、要件定義をされないまま本社から出向者が送り込まれることが多い。結果として起きるのは、引き渡す前に価値が抜けることである。買い手に渡した時点ですでに、買い手が値付けした事業ではなくなっている。
「売ると決めた」と「売り終えた」の間は、思ったより長い
マールオンラインの報道によれば、立花エレテックはコシダテックの韓国現地法人が手がける半導体デバイス関連事業を譲り受ける協議を始めたが、取得価額も取得予定日も未定とされている。協議の開始が公表された段階であり、調査・検討を経て最終契約に向かう。同じくヤマダホールディングスは、中国・瀋陽の販売子会社を現地企業へ譲渡すると公表し、ノンコア資産の売却による経営資源の最適化を目的として挙げている。
売り手の側から見れば、いずれの案件も、ここからまだ相当の期間その事業を持ち続ける。基本合意、デューデリジェンス、最終契約、クロージング。数か月から一年かかることは珍しくない。
その期間、その事業は「売られると決まっている事業」として運営される。 経営の条件が、前日までとまったく違うものに変わる。
売却を決めた瞬間から、価格を削る力が働き始める
なぜ価値が抜けるのか。四つの力が同時に働くからである。
キーマンが先に動く。 社員は公表前に察知する。見慣れない来訪者が続く、決裁が急に慎重になる、役員の会議が増える。察知した後、最初に動くのは最も市場価値の高い人である。転職に時間のかからない人から順に抜けていく。買い手が値段を付けた理由が特定の数人だった場合、この時点で価格の前提が崩れる。
投資が止まる。 本社の論理として、売る事業に新たな金は出しにくい。設備も採用も広告も止まる。止めた分だけ数字は落ち、落ちた数字は価格交渉で使われる。
取引先が様子見に入る。 とくに事業譲渡(会社ごとではなく事業だけを移す形)の場合、取引契約も雇用契約も自動では買い手に移らない。相手方の同意が要る。つまり取引先と従業員には、この機会に断るという選択肢が生まれる。会社ごと売る株式譲渡と、ここが決定的に違う。
本社の関心が落ちる。 売ると決めた事業の稟議は後回しになる。意思決定が遅れ、現場は「もうこの会社の一部ではない」と受け取る。
四つとも、経営が何もしなければ必ず起きる。だからクロージングまでの経営とは、この四つを押さえ込む仕事である。伸ばす仕事ではない。
この席に求められる4つ
1. 誰が抜けたら値が下がるかを特定し、その人に語れること
引き留めは、全員に対して行うものではない。買い手が何に値段を付けたのかを理解し、そこに紐づく数人を特定する作業が先にある。
そして特定した相手に、「あなたはどうなるのか」を語れなければならない。語るには本社から権限を得ている必要がある。リテンションの原資、買い手に引き継ぐ処遇の見通し、残らない場合の受け皿。これらを持たされていない経営者は、誠実であろうとするほど何も言えなくなる。
2. 数字の成り立ちを、買い手に説明できること
デューデリジェンスの対応は現場の作業ではなく、経営の仕事である。買い手が聞きたいのは数字そのものではなく、その数字がどう作られているかだ。特定顧客への依存、価格の決まり方、原価に乗っていないコスト。ここを説明できない経営者が座っていると、買い手は不明点をリスクとして扱い、価格を下げるか、表明保証の範囲を広げてくる。
3. 作り込まない誠実さ
引き渡し前に短期の数字を作る誘惑は常にある。しかし作った数字は、表明保証違反や価格調整、アーンアウトを通じて後から返ってくる。
※アーンアウトとは: 売却代金の一部を引き渡し時に払わず、その後の一定期間の業績達成に応じて後払いする仕組み。売り手と買い手で将来見通しが食い違うときの調整に使われる。作り込んだ数字は、この後払い分を失わせる形で跳ね返る。
4. 終わらせられること
この仕事には終わりがある。半年か一年で自分の席がなくなる前提を、引き受けられる人でなければならない。裏返せば、自分のキャリアの出口が別にある人でなければ引き受けられない。
出向者を送ると失敗しやすい、構造的な理由
本社の人材を送るのが最も手早い。しかしこの席に限っては、動機の設計が成立しにくい。
送られる側から見れば、これは畳んで渡す仕事である。うまくやっても社内に語り継がれる功績にはならず、昇進の物語にも乗らない。加えて、売却後の自分の行き先が決まっていないまま送られることが多い。買い手に移るのか、本社に戻るのか、戻るならどの席か。
決めずに送れば、本人は着任初日から自分の身の振り方を考え始める。それは必ず社員に伝わる。引き留める立場の人間が自分の身を案じている状態で、キーマンの離反を止めることはできない。
だからこの人事の実質は、送る人を選ぶことではなく、送る前にその人の出口を決めることである。
報酬は、通常の業績連動では組めない
投資を止められている事業で利益を伸ばせという設計は、そもそも成立しない。EBITDA連動をそのまま当てはめると、経営者は数字を作り込む方向に誘導される。
この期間に効く指標は三つである。
- クロージングの達成(予定時期からの遅れを含めて評価する)
- 特定したキーマンの在籍率(全社員の離職率ではない)
- 表明保証違反・価格調整の不発生(引き渡し後一定期間まで見る)
期間が短いので、月額報酬に完了時の一括を足す形が自然になる。そして報酬以上に効くのが、本人の出口の約束である。買い手に残る場合の処遇を売り手と買い手の間で先に合意しておくか、残らない場合の次のポジションを明示する。ここが空白のまま条件交渉に入ると、優秀な人ほど断る。
選考とレファレンスで確かめること
聞くべきは、畳む側・引き渡す側に回った経験である。撤退、統合による消滅、事業譲渡。成功譚として語られる種類の経験ではないので、本人の口からは自発的に出てこない。こちらから聞きに行く必要がある。
そのうえで、次の三つを具体的に尋ねる。
- 「そのとき、最初に辞めたのは誰でしたか。止めようとしましたか。何を約束できましたか」
- 「約束できないことを聞かれたとき、どう答えましたか」
- 「買い手からの質問で、答えたくなかったものは何でしたか。どう扱いましたか」
二つめと三つめは、その場を取り繕う人かどうかが出る質問である。ここで滑らかに答える人ほど注意が要る。
レファレンスは、可能であれば買い手側だった人に取るのが最も効く。デューデリジェンス対応の誠実さは、対峙した相手が一番よく知っている。
外から入れるほうが、動機の設計は素直になる
社内に「畳んだ経験のある人」はほとんどいない。事業売却は会社にとって滅多に起きないからである。一方で、期間限定の経営ポジションとして外から迎えるなら、出口が最初から「終わり」であることを双方が理解した状態で始められる。出向者に対して作りにくい動機が、外部からの招聘では素直に設計できる。
事業を買う側の要件定義についてはカーブアウトで買い手が引き受けるのは、事業ではなく「まだ独立していない組織」であるに書いた。売る側と買う側では、同じ事業に対して求める経営者像が正反対になる。
当社は、M&A後の経営体制や、公開されない期間限定の経営ポジションを扱っている。売却を決めた事業の経営をどう手当てするかについては、M&A後の経営体制についてにまとめている。
