CEOや取締役は、原則として正社員ではない。会社との関係は雇用契約ではなく委任契約であり、労働者を守るための仕組みは、そのほとんどが適用されなくなる。
つまり、役員就任は昇進ではなく、契約の種類の変更である。 給与明細の額面が上がることに目が行きがちだが、実際に動いているのは、身分を支えていた土台のほうだ。以下、何が外れて何が残るのか、そして就任前の契約でどこまで埋められるのかを順に整理する。
「社員のまま役員になる」は、原則として起きない
取締役と会社の関係は、会社法330条により委任に関する規定に従う。労働者ではないから、労働基準法や労働契約法が前提にしている保護は、原則として届かない。
そのため実務では、取締役就任のタイミングで従来の雇用契約をいったん終了させるのが一般的である。長く勤めた会社で内部昇格する場合、この時点で従業員としての退職金が打ち切り支給されることが多いのは、そのためだ。手続きの見た目は地味だが、ここで身分は切り替わっている。
例外は、いわゆる使用人兼務取締役(取締役でありながら、部長などの使用人としての職務も併せ持つ役員)である。労働者としての性質が認められる部分については、労働法や雇用保険の扱いが残り得る。ただしこれは「役員なのに社員の保護も付く」という都合のよい状態ではなく、実態がどちらなのかで判断される、境界線上の話だと理解しておいたほうがよい。
代表取締役やCxOとして外部から招かれる場合、この例外はまず当てはまらない。
委任契約が外す4つの保護
1. 解雇規制がない
会社法339条1項は、役員はいつでも株主総会の決議によって解任できると定めている。労働契約であれば必要になる「客観的に合理的な理由」や「社会通念上の相当性」といったハードルは、ここには存在しない。
代わりに置かれているのが同条2項で、正当な理由なく任期途中に解任された場合、役員は会社に損害賠償を請求できる。実務上は残りの任期に対応する報酬相当額が目安として語られる。保護がゼロなのではなく、「辞めさせられない権利」ではなく「辞めさせられたときにお金で清算される権利」に置き換わっている、と捉えるのが正確だ。
2. 任期がある
取締役の任期は、原則として選任後2年以内に終了する事業年度に関する定時株主総会の終結の時まで(会社法332条)。株式譲渡制限のある非公開会社では、定款で最長10年まで伸ばすことができる。
見落とされやすいのは、任期満了で再任されないことは解任ですらないという点だ。何も起きていないように見えて、期日が来たら関係が終わる。上の339条2項の賠償も、任期満了の不再任には基本的に働かない。PEファンドの投資先や事業承継の局面では、投資回収や代替わりの時間軸が別にあるため、任期の長さと再任の判断基準は、報酬額と同じ重さで確認しておくべき条件になる。
3. 雇用保険・労災保険が原則として外れる
役員は原則として雇用保険の被保険者にならない。退任しても失業給付は出ない。 労災保険も原則として対象外で、中小事業主等の特別加入制度(労働者以外の立場の人が任意で労災保険に加入できる仕組み)を使う道があるにとどまる。
一方で、健康保険と厚生年金は続く。 法人の役員は、報酬を受けていれば被保険者となる。「社会保険が全部なくなる」と誤解している人が時々いるが、外れるのは雇用と労災の側であって、医療と年金の側ではない。
4. 退職金が制度として保証されない
役員退職慰労金は、会社法361条にいう報酬等に含まれると解されており、支給には定款の定めまたは株主総会の決議が必要になる。社内に規程があっても、それは会社の内部ルールであって、決議がなければ支払いは確定しない。経営体制が変わった後に決議が通らない、という事態は起こり得る。
この論点は取締役の「退職金」は約束されていない?役員退職慰労金に潜む不支給リスクと防衛策で詳しく扱っている。
保護を外した対価は、決裁である
ここまでを並べると、役員就任は失うものばかりに見える。だが構造として見れば、交換は明快だ。
労働者は時間を提供し、その対価として保護を受け取る。役員は結果を引き受け、その対価として決裁を受け取る。 報酬の上限が外れているのは、下限も外れているからであって、どちらか一方だけを取り出すことはできない。
経営人材の市場で「役員経験」が重く評価されるのも、肩書きの格ではなく、この引き受けの経験を指しているからである。実際、取締役会の決議に加わらない立場のまま役員に近い仕事をしていた人が、その経験を経営経験として読まれずに苦労する例は珍しくない(この点は執行役員の転職は「役員経験」として読まれないで整理した)。
そして、この交換が割に合うかどうかは、業績や景気ではなく契約条件で決まる。 ここが、就任前にできる唯一の実務である。
契約で埋められるもの、埋められないもの
オファーを受け取った段階で確認すべき条件は、報酬額よりも次の項目に集まる。
- 任期の長さと、再任の判断が誰の手にあるか。 株主が一社に集中している会社では、再任は事実上その一社の判断になる
- 任期途中で終わった場合の清算。 339条2項の賠償は法律上の話であり、実際には契約に補償条項を置いて金額と条件をあらかじめ決めておくほうが、争いにならずに済む
- 株式やストックオプションの扱い。 退任事由によって権利が残るか消えるかが変わる設計(円満な退任者と、そうでない退任者を分けて扱う条項)が入っていることが多い。ここは退任時に初めて読む人が多いが、入る前に読む条項である
- 競業避止の期間と、その代償。 退任後の行動範囲を縛る条項は、対価とセットで見なければ意味がない(競業避止義務で本当に効くのは差止めではない)
逆に、契約では埋められないものもある。任期満了による不再任と、株主の交代である。 これらは相手の正当な権利の行使であり、条項で止めることはできない。だからこそ、任期の長さと株主構成は、条件交渉ではなく「その席を受けるかどうか」の判断材料になる。
なお、個別の条項の効力は会社の機関設計や定款、契約の書きぶりによって変わる。最終的な判断は弁護士など専門家に確認してほしい。ここで言いたいのは、確認すべき項目の順序である。
「正社員に戻れるか」で迷っているなら
役員を降りても、社員の席が自動的に戻るわけではない。委任契約の終了は、雇用契約の復活を意味しないからだ(「役員を降りる」は退職とは別の手続きである)。
だから、戻れる前提で受けるのではなく、戻らない前提で、次にどう繋がるかを見て受けるほうが現実的である。 経営ポジションの経験値は、在任年数よりも「その期間に何の意思決定を引き受けたか」で読まれる。資本の入れ替わりや承継のように、期限のある局面を経験している人ほど、次の席の話が具体的に進む。
私たちは、PEファンドの投資先や事業承継など、表に出てこない経営ポジションを扱っている。その立場から見ていて思うのは、条件の交渉で最後まで残る論点は報酬額ではないということだ。任期の長さと、終わり方の設計。 迷っている段階でこの二つを先に確認しておくと、受けるかどうかの判断そのものが速くなる。
