会社役員の退職では、社員の退職なら自動で付いてくるものが、ほぼ何ひとつ付いてこない。

退職金は、株主総会の決議がない限り発生しない。失業保険は出ない。離職票も出ない。有給の買い取りもない。そして、これらを「出してほしい」と交渉できる期間は、辞任届を出した瞬間に終わる。

社員の退職は、日付を決めれば制度が残りを処理してくれる。役員の退職は、日付を決めても制度は何も処理しない。だから重要なのは手続きの中身よりも順序である。以下、何が付いてこないのかと、届を出す前に確定させるべきことを整理する。

社員なら付いてくるもののうち、役員に付いてこないもの

会社法330条は、会社と役員の関係を委任に関する規定に従うと定めている。役員は労働者ではなく、会社と対等な契約当事者である。この一点から、次の差が全部出てくる。

社員の退職 役員の退職
退職金規程に基づき支給される 株主総会の決議がなければ、請求権が発生しない
雇用保険から基本手当(失業保険) 原則として受給できない(被保険者ではない)
離職票が発行される 発行されない
未消化の有給休暇が残る そもそも年次有給休暇の制度が適用されない
退職日は本人が決められる 決められない場合がある
就業規則が退職の条件を定めている 定款・株主総会決議・委任契約が条件を定める

特に見落とされるのが一段目である。役員退職慰労金は、規程があっても、それだけでは債権にならない。 会社法361条は取締役の報酬等を定款または株主総会の決議で定めると規定し、退職慰労金もこの「報酬等」に含まれるというのが判例の立場だ。社内に立派な規程があっても、株主総会が決議しなければ、金額はゼロのまま確定する。

社長が交代した、株主が変わった、業績が悪化した——そうした事情で決議が見送られたとき、規程を根拠に支払いを求めても通らないことが多い。この不支給リスクの中身は取締役の「退職金」は約束されていないに詳しく書いた。

辞任の意思表示は、届いた時点で効力が生じ、原則撤回できない

順序が決定的に効いてくるのは、辞任という行為の性質による。

辞任は、会社に対する一方的な意思表示である。民法上、委任は各当事者がいつでも解除できる(民法651条1項)。会社の承認や受理を待つ必要はなく、意思表示が会社に到達した時点で効力が生じる。

裏を返すと、会社が「わかった」と言う前に、こちらの交渉カードは手を離れている。 辞任届は退職届と違って、受理されるまでの猶予期間がない。いったん到達したものを引っ込めるには、会社の同意がいる。

つまり実務上の鉄則はこうなる。

役員の退職で交渉すべきことは、すべて辞任届を出す前に終わらせる。

社員の感覚で「まず意思を伝えて、それから条件を詰める」と進めると、条件を詰める段階には交渉力が残っていない。

辞任届を出す前に確定させる6つのこと

1. 退職慰労金を、いつの株主総会で決議するか

金額だけでなく、どの総会に議案として上程するかを確定させる。定時株主総会まで半年ある場合、その半年の間に株主構成や経営陣が変わることがある。可能なら、辞任の効力発生日と決議のタイミングを合わせるか、臨時株主総会の開催まで含めて合意しておく。

議事録に残る形での合意が最も強い。口頭の約束や、代表者個人からのメールは、次の経営陣を拘束しない。

2. 支給の時期と方法

決議されても、支払いが翌々期になる例がある。分割支給にする場合は各回の時期を、現物(社宅・車両・保険契約の名義変更など)を含む場合はその評価と移転時期を、文書で確定させる。

3. 税務上の取り扱い

役員退職慰労金は退職所得として扱われ、給与所得より税負担が軽い。ただし役員としての勤続年数が5年以下の場合、退職所得控除後の2分の1課税が適用されない(特定役員退職手当等)。就任から5年未満で退く場合は、手取りの想定が大きく変わる。

また、完全に退くのではなく非常勤や相談役として残る「分掌変更」の形を取る場合、退職所得として扱えるかどうかは実態で判断される。報酬の減額幅や経営への関与の度合いが問われるため、この形を検討するなら顧問税理士に個別に確認したほうがいい。

4. 競業避止と秘密保持の範囲

取締役には会社法356条・365条の競業避止義務があるが、これは在任中の義務である。退任後の制約は、委任契約や別途の合意書で定められている範囲に限られる。

自分が何に署名したかを、辞任を切り出す前に読み直す。期間・地理的範囲・対象業種が過度に広い条項は、退職の合意と一緒に見直す交渉材料になる。届を出した後では議題に載らない。

5. 退職日そのもの

辞任すれば役員でなくなるが、会社を去れるかは別の話である。辞任によって法律または定款で定めた役員の員数を欠くことになる場合、新しい役員が就任するまで、辞任した人は役員としての権利義務を負い続ける(会社法346条1項)。

※権利義務取締役とは: 辞任や任期満了で退任しても、後任が決まるまでは取締役としての権利義務を持ち続ける状態のことです。登記も残り、対外的には取締役のままです。責任も残るため、後任選任の見通しが立たないまま辞任すると、抜けられない状態が続きます。

後任の選任時期を合意してから届を出す。この論点を含めた「降りる」手続きの全体像は「役員を降りる」は退職とは別の手続きであるにまとめてある。

6. 使用人兼務役員なら、契約は二つある

取締役であると同時に部長・本部長などの職を兼ねている場合、委任契約と雇用契約の両方を結んでいる。取締役を辞任しても、雇用契約は自動的には終わらない。逆に、会社を完全に去るつもりで辞任届だけを出すと、雇用契約の処理が宙に浮く。

この場合、役員としての退職慰労金と、従業員としての退職金は別々に計算される。どちらも請求し損ねないよう、在籍期間の区分を先に確認しておく。委任契約が外す保護の範囲はCEO・取締役は「正社員」ではないで整理した。

任期の途中で辞めるとき、損害賠償の論点がある

委任はいつでも解除できるが、相手方に不利な時期に解除したときは、やむを得ない事由がある場合を除き、損害を賠償する義務がある(民法651条2項)。

実際に会社が役員へ賠償を請求する例は多くないが、退職慰労金の減額や不支給を正当化する材料として持ち出されることはある。重要な資金調達やM&Aの途中、決算の直前といった時期に突然抜けると、この論点が交渉のテーブルに乗る。

逆に言えば、引き継ぎ期間を提示できること自体が交渉材料になる。 「3か月後の定時株主総会をもって」という形にすれば、不利な時期という主張は成立しにくくなり、決議のタイミングとも揃う。

登記・社会保険は、会社が動かないと終わらない

退任の登記は会社の義務であり(会社法915条1項、変更から2週間以内)、本人が申請するものではない。だが会社が放置する例がある。 登記簿に自分の名前が残ったままだと、次の会社で役員に就任する際に説明が必要になったり、対外的に取締役として扱われ続けたりする。

辞任届の写しを手元に残し、退任後に登記事項証明書を自分で取って確認する。登記されていなければ会社に催告する。

社会保険(健康保険・厚生年金)も、資格喪失の届出は会社が行う。退任日と喪失日がずれると、その月の保険料や次の加入先での手続きに影響が出る。任意継続を選ぶ場合は資格喪失日から20日以内という期限があるため、退任日を自分の手帳にも控えておく。

順序を間違えなければ、役員の退職は交渉できる

ここまで並べると不利な話ばかりに見えるが、構造としては逆でもある。社員の退職は就業規則と法律で条件が決まっていて、交渉の余地がほとんどない。役員の退職は、決まっているものが少ない分、こちらから設計できる。

退職慰労金の議案も、退職日も、競業避止の範囲も、引き継ぎの期間も、まだ何も確定していない。確定していないものは交渉できる。ただしそれは、辞任届が会社に届くまでの間だけである。

次の場所を決めてから降りるか、降りてから探すかも同じ話だ。在任中のほうが交渉の材料は多い。次のポジションの選択肢を先に持っておきたい場合は、経営ポジションの相談から在任中に情報を取っておく方法もある。

退く決断そのものは、たいてい退く前から固まっている。変えられるのは、その決断をどの順序で外に出すかだけだ。